トウカイテイオーは、1988年4月20日、新冠町・長浜牧場で誕生しました。父は日本競馬史上初の無敗の三冠馬で史上最強の皇帝と称えられたシンボリルドルフ、母は姉にオークス馬トウカイローマンをもつトウカイナチュラルという良血馬。幼少時、牧場で1m30㎝もある牧柵を無傷で飛び越えたという逸話があって、デビュー前から並はずれた能力の片りんを見せていたそうです。
栗東・松元省一厩舎に入厩したテイオーは1990年12月中京芝1800m戦でデビュー。安田隆行騎手鞍上で見事1番人気に応えて優勝すると、続くシクラメンS(OP)、若駒S(OP)、若葉S(OP)も勝ち一躍1991年牡馬クラシック路線の主役となりました。
牡馬クラシック第1弾・皐月賞(GI)は重賞初挑戦ながら1番人気に応え優勝。なお、2着は父シンボリルドルフのライバルだった三冠馬ミスターシービーの息子シャコーグレイドという血のドラマを強く感じさせる結果でした。
クラシック第2弾・日本ダービー(GI)は、約18万の大観衆が見つめる中、圧倒的1番人気に応え2着レオダーバン(後の菊花賞馬)に3馬身差をつけて圧勝、父に並ぶ親仔2代の無敗の二冠馬(これは現在でも日本競馬史上唯一の記録)に輝きました。

日本ダービーのパドック写真(撮影日1991年5月26日)です。弾むような後肢の力強い踏み込みは彼特有のもので目を見張るものがありました。
骨折は軽症でしたが、ぶっつけで挑んだ天皇賞(秋)はハイペースに巻き込まれたこともあって末脚をなくし7着、もう強いテイオーは戻ってこないのか、挫折が続きます。
でも、トウカイテイオーは終わっていませんでした。続くジャパンC(GI)は、この年から国際GIに認定され、史上最高の豪華メンバー(欧州年度代表馬ユーザーフレンドリー、イギリスダービー馬ドクターデヴィアス、クエストフォーフェイム、アーリントンミリオンS馬ディアドクター、オーストラリアAJCダービー馬ナチュラリズム、メルボルンC馬レッツイロープが出走)が相手だったにも関わらず、見事勝利したのでした。日本馬のジャパンC優勝は父シンボリルドルフ以来、7年振り3頭目の快挙、普段冷静な岡部騎手が珍しくゴール後ガッツポーズ、場内は岡部コールに包まれ、感動のレースとなりました。
しかし、天は再び彼に試練を与えます。1992年を締めくくる有馬記念(GI)は、岡部騎手が騎乗停止となり、急遽鞍上に田原成貴騎手を迎えて1番人気で出走したものの、激闘の疲れか良いところなく11着に大敗。その後、筋肉痛と調教中に3度目の骨折を発症、なんと1年もの休養を余儀なくされたのでした。
1年振りの復帰戦は、再びの有馬記念。1年のブランクでGIを勝った馬は皆無、勝てるわけがない、、、それが競馬の常識でした。
ところが、1年ぶりに見たパドックのテイオーは、落着きを取り戻し、あのダービーで見た時のような弾むようなフットワークがよみがえっていました。

有馬記念(撮影日1993年12月26日)のパドック写真。この姿を見て、テイオーの単複馬券を買うことを決断しました。
そして、テイオーは常識外れの底力を見せレースに勝ちました。最後の直線・坂下で1番人気のビワハヤヒデに並びかけた時、僕は「テイオー!テイオー!」と絶叫していました。あの日のジャパンCと同じように、いやそれ以上の声をあげて。その期待に応えるようにゴール前で先頭に立ってゴールした時、目から涙があふれ、しばらく止まりませんでした。
こんなに取り乱したのはオグリキャップの有馬記念でもなかったことで、本当に心から感動しました。テイオーはこのレースの後も現役を続ける予定でしたが、翌年4月に4度目の骨折を発症したため、結果的にこの有馬記念が最後のレースとなりました。
この驚天動地のファイナル・ウインは一生忘れらないレースとして、いつまでも僕の心の中に残ることでしょう。
なお、引退後のトウカイテイオーは種牡馬として、ヤマニンシュクル、トウカイポイント、ストロングブラッドの3頭のGIホースを輩出、一定の活躍を見せてくれましたが、残念ながら後継種牡馬は不在となっています。
皇帝、帝王と続いた父系が途絶えるのは本当に悲しいですが、いつか母の父からテイオーの血がよみがえることを祈るだけです。そう、現在オルフェーヴル、ゴールドシップで脚光を浴びている同じパーソロン系のメジロマックイーンのように!
最後に牧場見学(撮影日2005年8月22日、社台スタリオンステーション)で会った時のトウカイテイオー君の写真をいつもより大きめの写真で掲載します。どうか安らかに眠ってください。心からご冥福をお祈りします。
トウカイテイオー
父シンボリルドルフ 母トウカイナチュラル(母の父ナイスダンサー)
1988年4月20日生 牡25 新冠・長浜牧場生産 栗東・松元省一厩舎
(通算成績)12戦9勝
(重賞勝利)1991年日本ダービー(GI)、皐月賞(GI)、1992年ジャパンC(GI)、1993年有馬記念(GI)、1992年大阪杯(GII)
(主な産駒)ヤマニンシュクル(阪神JF)、トウカイポイント(マイルCS)、ストロングブラッド(かしわ記念)
1年のブランクでGIを勝った馬は皆無、勝てるわけがない、、、それが競馬の常識でした。
常識外れの底力、トウカイテイオー
常識を超えた強さに憧れを抱きつつも、困難に立ち向かう姿にシンパシーも感じることができたトウカイテイオー。だからこそ、有馬記念で彼の起こした“奇跡”を、私たちは自らのことのように喜べたのだろう。
「記録に残る選手」は畏敬をもって迎えられる。積み重ねられた数値を私たちはただただ見上げるだけで、その偉大さにひれ伏すしかないからだ。
「記憶に残る選手」は熱狂をもって迎えられる。その一挙手一投足で生み出されたプレーが、数値に置き換えられない興奮を呼び起こしてくれるからだ。
さて、トウカイテイオーの競走人生を振り返った場合、いったいどちらのタイプに属するのだろうか。
通算12戦9勝、うちGI4勝という数字は、七冠馬と呼ばれた父シンボリルドルフにこそ及ばないものの、超一流の戦績だといってよい。とくに父の足跡を辿るかのような無敵の6連勝で、皐月賞とダービーを制した旧4歳時の強さには、畏敬の念を抱かずにはいられない。
では記録だけの馬かといえば、そうでないのが魅力なのだろう。ダービー以降はたび重なる故障で長期休養もしばしばだったが、そこから這い上がる姿がファンの心を鷲掴みにした。
平成4(1992)年のジャパンカップがそうだった。骨折休養明けの天皇賞(秋)を7着と敗退、しかも“史上最強軍団”と評された外国勢の参戦で、単勝オッズは10倍の5番人気という評価。しかし彼は、豪州のダービー馬ナチュラリズムとの激闘を制して栄光を手中にする。
そして、今や伝説となった旧6歳時の有馬記念。中363日、前年のグランプリから1年ぶりの実戦という極めて不利な状況のなか、それを微塵も感じさせぬ走りで、鮮やかな差し切り勝ち。ゴールの瞬間スタンドには言葉にならない大歓声が渦巻いていた。
常識を超えた強さに憧れを抱きつつも、困難に立ち向かう姿にシンパシーも感じることができたトウカイテイオー。だからこそ、有馬記念で彼の起こした“奇跡”を、私たちは自らのことのように喜べたのだろう。
トウカイテイオーがターフを去って10年経つが、今でも誕生日にはファンからのプレゼントが届くという。
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全成績 | 通算 12戦9勝 |
年月日 | 場 | レース名 | 格 | 距 離 | 着順 | 騎 手 | タイム | 調教師 | |
01 | 1990.12.01 | 中 京 | 3歳新馬 | 新馬 | 1800 | 1 | 安田 隆行 | 1.52.9 | 松元 省一 |
02 | 1990.12.23 | 京 都 | シクラメンS | OP | 2000 | 1 | 安田 隆行 | 2.03.8 | 松元 省一 |
03 | 1991.01.19 | 京 都 | 若駒S | OP | 2000 | 1 | 安田 隆行 | 2.01.4 | 松元 省一 |
04 | 1991.03.17 | 中 山 | 若葉S | OP | 2000 | 1 | 安田 隆行 | 2.03.6 | 松元 省一 |
05 | 1991.04.14 | 中 山 | 皐月賞 | GI | 2000 | 1 | 安田 隆行 | 2.01.8 | 松元 省一 |
06 | 1991.05.26 | 東 京 | 東京優駿 | GI | 2400 | 1 | 安田 隆行 | 2.25.9 | 松元 省一 |
07 | 1992.04.05 | 阪 神 | 産經大阪杯 | GII | 2000 | 1 | 岡部 幸雄 | 2.06.3 | 松元 省一 |
08 | 1992.04.26 | 京 都 | 天皇賞(春) | GI | 3200 | 5 | 岡部 幸雄 | 3.21.7 | 松元 省一 |
09 | 1992.11.01 | 東 京 | 天皇賞(秋) | GI | 2000 | 7 | 岡部 幸雄 | 1.59.1 | 松元 省一 |
10 | 1992.11.29 | 東 京 | ジャパンC | GI | 2400 | 1 | 岡部 幸雄 | 2.24.6 | 松元 省一 |
11 | 1992.12.27 | 中 山 | 有馬記念 | GI | 2500 | 11 | 田原 成貴 | 2.34.8 | 松元 省一 |
12 | 1993.12.26 | 中 山 | 有馬記念 | GI | 2500 | 1 | 田原 成貴 | 2.30.9 | 松元 省一 |
(年齢は旧表記)
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